原田弘良 感謝の理由  黎明 編

「夢と感動を持って生きる」

この副題を付けた社長ブログを開始して、
約1年半が過ぎました。

ありがたいことに、
最近は各方面で講演の依頼などをいただきますが、

「幼少期を含めた今までの原田社長の
半生や会社立ち上げストーリーを聴きたい」

というご要望が多く、
この辺で何回かシリーズに分けて、
私の半生を振り返ってみようと思います。

この半生を書くにあたって、
私自身がまず思うことは、
私自身の人生に少しでもかかわってくれた
みなさんに感謝したい、ということです。

唯一私がやってきたことは、
一生懸命前向きに生きる、ということだけです。

その時々で、
私の身近にいてくれた方々が私を助けてくれたのです。

そんな思いを今巡らせながら、
感謝の理由を書いてみたいと思います。

第1話  生い立ち

父親は建築板金という仕事を自営でやっていました。

その親父は酒乱で、私が小学生の頃、
酔っぱらっては、おふくろを殴る蹴るの状態でした。

毎日酔っ払っては、私も殴られました。

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母は殴られるので、
夜中に飲んだくれている親父のスキを見て、
出ていくのです。

そして、近所の家にかくまってもらい、
朝になると私が雨戸を開けて
母を家に入れてあげるという毎日でした。

飲んだくれて、ろくに働かないので、
私の家はものすごく貧乏でした。

明日の米にも困る、そんな生活でした。

生活保護を受けていた時もありました。

昭和40年代位までは、隣近所の家で、
「あそこの家の親父は、また飲んだくれて、
騒いで、まったくしょうがないね」
と蔑まれる家があったものですが、
その蔑まれる側です。

親父の暴力から逃げるために、
母と私そして妹2人の4人で、
東京から埼玉にかけて家を転々と引っ越しました。

母は私たちを育てる為に、
朝は新聞配達、昼はヤクルトの配達と
仕事を掛け持ちで頑張ってくれました。

私も小学校の時には新聞配達の仕事を手伝い、
中3からはずっとスーパーでバイトをして、
母を助けていました。

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子供の頃は、飲んだくれて仕事もしない親父を、
いつか絶対、首絞めて殺してやろうというくらいに思い、
恨んでいました。

高校卒業後アルバイトをしながら
一浪して中央大学に入りました。

大学時代は学校とアルバイトに明け暮れました。

なんせ学費も生活費も
すべて自分で稼ぎださないといけないものですから。

そんな中で、
仲間と始めた学生企業は結構お金になりました。

パソコンソフトの製造販売です。

当時NECのPC8000というパソコンが
日本で初めて売りに出されたのですが、
そのパソコン用のソフトです。

今でもそうですが、どのようなソフトにも、
コピーガード機能がついていて、
コピーできないようになっていますが、
その機能を解除してコピーするためのコピー用ソフトです。

大ヒットというくらい売れました。

「ハンドピック」という商品名です。

その頃は学生企業というものが珍しく、
世間からも少し注目を浴びて、
マスコミの取材とかもありました。

もともと貧乏で仕送りなど望むべくもない私でしたが、
大学1~2年の時は、
その頃の金額で年間300万円ほどの
年収にはなっていたと思います。

その後大学の違う仲間とやったのは
大学入試の時期だけの合格電報業です。

以前は入学試験の合否は大学内に貼りだされるだけで、
地方の学生はなかなか合格発表を見に来ることができない。

それを代わりに見て合否を電話で伝えてあげるサービスです。

私は元来、新しいサービスや戦略を取り入れるのが好きで、
その当時NTTが開始したばかりの
「伝言ダイヤル」、という機能を
合格電報の学生仲間の人員配置に取り入れ、
日程が重なることの多い大学入試会場の状況把握に使い、
リアルタイムにアルバイト学生を配置することをやり、
売上がアップして、新聞や雑誌にも取り上げられました。

大学時代の私は、学生企業をやったりして、
ほとんど寝ていた記憶など無いくらい、
忙しく過ごしていました。

今思うと幼少から高校生までの家庭環境の
辛かった思い出とは一変し、
学費から生活費まで自分で稼いでいたにもかかわらず、
すごく楽しく充実した思い出でいっぱいです。

学生時代に住んでいたアパートが
中大生専用の小さなアパートで、
そこでの仲間とも忙しいながら楽しく過ごしました。

学校と数々のアルバイトと学生企業と、
その後の就職につながる
マスコミ研究会のサークル活動とで、
寝る時間が無いくらい忙しいけど充実していました。

今に繋がる商売の勘はこの頃に身に付けたものだと思います。

「自分の人生は自分で切り開け」

と良く社員に言っていますが、
その言葉は私自身の幼少のころから
学生時代にかけての原体験からきたものです。

第2話 心の中に生きる原体験

そんなろくでもない親父でしたが、
教えられて感謝している唯一の言葉があります。

それは、飲んだくれた時にいつも言われていた言葉です。

「どんなことでもいい、
仕事でもスポーツでもなんでもいいから、
とにかく日本一になれ」

という言葉でした。

飲んだくれて、殴られながら言われるわけですから、
子供の私にその言葉の意味と意義は分かるわけがありません。

理解しようとする姿勢ではないのです。

むしろ「殺してやる」と思っていました。

この、何でもいいから日本一になれ、
という言葉はアクアを起業した20代後半くらいになって、
実は私の中に刷り込まれていることに気付いたのです。

ろくでもない親父でありながら、
唯一、今でも私の心に響いている言葉です。

私達家族を苦しめ続けた親父は
8年前(平成13年)他界しましたが、
その親父を私は最後まで許すことはできませんでした。

親父が末期の肺がんで緊急入院した、
という知らせを聞き、病院に駆け付けましたが、
倒れたオヤジと対面したのは、実に10年ぶりでした。

病室のベットでやせ細った親父と対面したとき、
辛かった子供の頃の思い出が蘇り、
と同時に10年ぶりに会った親父が、
末期がんで苦しんでいる姿を見て、
私は病室の窓から外の景色を見るふりをして、泣きました。

親父も泣いていました。

その後一か月で親父は亡くなりました。

亡くなるまでの一か月間は私にとって、
親父との子供の頃からの関係を
埋めるかのような意義のある一か月になりました。

病院にも泊まり込んで看病しましたが、
その後の自分の人生のための、
親父との心の決着をつけた、いい時間となりました。

ろくでもない親父とはいえ、
その親父を大人になるまで許せなかった自分については、
大変後悔しています。

「親孝行したいときには親はなし」
といいますが、本当にそうですね。

人生とは不思議なもので、
亡くなった親父に対して、
今では、子供のころから苦労させてくれてありがとう、
とすら思っています。

今に繋がる、
「前向きに生きる」という土台がその頃にできたと思うからです。

最近、大学生向けセミナーで講演をした時に、
「どうしてそんなに自信を持って生きられるのですか?」
と聞かれることがありました。

「自信」は「前を向いて生きる」中で育まれるのです。

私の場合は、常に崖っぷちの人生でしたから、
後ろに下がることができません。

ですから前に進むしか術が無かったのです。

「退路が無い」ことによって、
前を向いて生きていかざるを得ないので、
結果的に成長という成功体験が得られ、
自信があるように見えるのです。

今、思い返すと、
「自分の人生は自分で切り拓く」と思っていた自分が、
実はいかに人に助けられてここまで来たか、
という事が思い起こされます。

その時々で私を助けてくれた
人々の心の温かさを噛みしめる時、
感謝の気持ちで一杯になります。

窮地に追い込まれた時に助けてくれた恩人の方々。

社員のみんなをはじめ、お客さん、友人、近所のおばさん、
私の人生に関わってくれた全ての方々に感謝します。

ありがとうございました。

黎明 編 おわり

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